泉鏡花『夜叉ヶ池』を公開しました

2023.05.08   地域情報

泉鏡花『夜叉ヶ池』を公開しました

三国岳の麓の里に、暮六つの鐘きこゆ。――幕を開く。
萩原晃この時白髪のつくり、鐘楼の上に立ちて夕陽を望みつつあり。鐘楼は柱に蔦からまり、高き石段に苔蒸し、棟には草生ゆ。晃やがて徐に段を下りて、清水に米を磨ぐお百合の背後に行く。
晃 水は、美しい。いつ見ても……美しいな。
百合 ええ。
その水の岸に菖蒲あり二三輪小さき花咲く。
晃 綺麗な水だよ。(微笑む。)
百合 (白髪の鬢に手を当てて)でも、白いのでございますもの。
晃 そりゃ、米を磨いでいるからさ。……(框の縁に腰を掛く)お勝手働き御苦労、せっかくのお手を水仕事で台なしは恐多い、ちとお手伝いと行こうかな。
百合 可うございますよ。
晃 いや……お手伝いという処だが、お百合さんのそうした処は、咲残った菖蒲を透いて、水に影が映したようでなお綺麗だ。
百合 存じません。
晃 賞めるのに怒る奴がありますか。
百合 おなぶり遊ばすんでございますものを。――そして旦那様は、こんな台所へ出ていらっしゃるものではありません。早くお机の所へおいでなさいまし。
晃 鐘を撞く旦那はおかしい。実は権助と名を替えて、早速お飯にありつきたい。何とも可恐く腹が空いて、今、鐘を撞いた撞木が、杖になれば可いと思った。ところで居催促という形もある。
百合 ほほほ、またお極り。……すぐお夕飯にいたしましょうねえ。
晃 手品じゃあるまいし、磨いでいる米が、飯に早変わりはしそうもないぜ。
百合 まあ、あんな事を――これは翌朝の分を仕掛けておくのでございますよ。
晃 翌朝の分――ああ、お所帯もち、さもあるべき事です。いや、それを聞いて安心したら、がっかりして余計空いた。
百合 何でございますねえ。……お菜も、あの、お好きな鴫焼をして上げますから、おとなしくしていらっしゃいまし。お腹が空いたって、人が聞くと笑います。
晃 (縁を上る)誰に遠慮がいるものか、人が笑うのは、ね、お前。
百合 はい。
晃 お互いに朝寝の時――
百合 知りませんよ。(莞爾俯向く。)

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